磯野直丈(ジョー) 略歴

1964年、東京オリンピックの閉会式が行われていた日に、大手企業サラリーマンの父親と美容師の母親の元に、磯野家の長男として横浜で元気に生まれる。

小さい頃からスポーツ万能。中学校では女子にモテモテ。高校はスポーツが盛んな私立高校へサッカー推薦入学した。

10代は喧嘩とバイクに捧げた天下無敵のオレ様も、二十歳になる数ヶ月前の夏にバイク事故で大怪我をおい、生死をさまよう手術を受ける。

「怪獣」のように元気だった体が一変し、その後も怪我と病気の連鎖で入退院を繰り返した。

体に付けた縫い傷はサッカーのハットトリックで負傷した傷も含めて100針以上。

20歳と21歳の誕生日は2年連続で病院に入院中で、痛みと闘う日々だったという辛い青春を味わった。

幼少の頃からプロボクサーか、またはバイクのレーシングチームを作りたいと思っていた夢も儚く破れ、体が自由に動かなくなり、今までとはすっかり違う自分の姿に「もうダメだ!」と何度も絶望し落胆しつつもその度に「まだ!まだできる!」と自分自身を騙し、奮い立たせ、徐々に日常生活を取り戻して行った。

リハビリ中に「今の自分に何ができるのか?」と自問していたが、ある時、人から「お前は絵が描けるじゃないか」と言われ、グラフィックデザイナーの道へ進む。

怪我からの回復は100%ではなかったが、バルブ経済が絶頂時の東京で、仕事のキャリアも順調に積み、クリエイターとして広告制作プロダクションをステップアップのため転々とする。

30代のはじめには、興味本位からホストも経験。店ナンバーワンホストとなるが、これは女性問題を引き起こすきっかけともなった。

博報堂・電通・アサツーDKなどの広告代理店を経てクリエイティブディレクターとして独立。社員15名ほどの会社の経営者となったのが40代に入った頃だった。

人生がうまく回っていたように感じたのも束の間。3年後、気がついた時には自分と会社が蜘蛛の巣に引っかかる如くに罠に陥ってしまっている状態になっていた。

信頼も裏切られ事業の失敗に直面し、多額な借金こそ免れたが全ての財産を失った。そして、人間不信に陥り50代半ばを迎える直前まで、雌伏の10年を過ごす。

2018年夏。パーキンソン病を長く患い入院していた最愛の母が88歳で息を引き取った。どんなことをしてもいつも息子を信じ味方でいてくれた母の死には、多大な喪失感を味わった。

しかし、落ち込んでいたのもそこまでだ。

10歳で出会い中学の時には初恋の人となった幼なじみが、何の前触れもなく、夢に現れたのだ。

彼女は14歳になった時にその切ない思いを伝えた相手だった。

自分でも「なぜ?」と驚いたが、これはきっと何か意味があるに違いないと、フェイスブックを通して彼女らしき人を探し出し、メッセンジャーから連絡を取ってみた。

40年ぶりに初恋の人と会話を交わし、今までのブランクが一瞬のうちに埋められていくように感じた。

ある意味平穏無事な生活に甘んじ、人生諦めていた部分もあったが、もう一度、自分に期待してみようという気持ちがずっと忘れていた彼女に対する当時の感情と共にこみ上げてきた。

今まで、誰も動かすことができなかった「この俺が」彼女のある一言で、

今まで何をしていたんだろう?

と目が覚めた気持ちになる。

アメリカにいるその初恋の女(ひと)と今後の人生を共にすることに全てを賭けて、この10年過ごしてきた暗い洞窟から出る時が来たと感じた。

微かな光が差し込んで来ているのを信じ、差し伸べられた手をとり、英語もできないのに彼女と人生初の結婚をするために渡米を決意。

未知の道に挑む男の浪漫劇場が、開幕する。

オレの人生はまだ、
これからだぜ。

ー磯野直丈